科研費報告

2017~2021年度 17K02480


基盤研究(C)(一般)

上方文壇と地方談林俳諧文化圏との繋属関係の研究 ~海川・物流網を視座として~


研究のねらい

談林俳諧の担い手の多くは、元来が地方の裕福な旦那衆であり、彼らは江戸時代に利権を得た新興商人が多く、地方に経済基盤と生活基盤の拠点を置き、生産物を大量に集積し、川運や湖運や海運によって、大量消費地である都市部、三都を往来していた。そのツールは、河村瑞賢が開発した西廻り航路、東廻り航あったが、この「舟」と「海」の時代の到来時期と談林俳諧が急速に発展した頃[寛文・延宝年間(1673-81)]とが重なり合うことが判明した。本年度はその三都の中でも大坂文壇の中心で談林俳諧の始祖・西山宗因と、大坂談林派の雄として君臨していた井原西鶴の門流について精査を行った。まだ、5年計画の初年度のため、十分な成果は得られていないが、大坂談林の刊行した俳書の多くには、先述した地方談林のリーダーたちとの接点が見られ、それらを研究成果報告用ホームページであげた。まだ、それぞれの人物の文化的事跡、俳人としての活動についての掲載は完成していないが、随時調査していきたい。また、そのような地方談林俳壇の実態を知る上で、貴重な資料が蕉門活動であることもわかった。例えば、地方談林俳諧の拠点を崩し、蕉風俳諧の普及を図ることが、元禄十五(1702)年の『奥の細道』刊行に先立つ芭蕉の旅の目的であるとすれば、いかがであろうか。その逆説的仮定の見地から「奥の細道」の旅の軌跡を追跡すれば、地方談林俳壇の牙城が鮮明になるのではなかろうか。また、「奥の細道」の旅以前の芭蕉の旅は概ね内陸部にあった。それが「奥の細道」の旅では太平洋岸・北陸においても日本海岸が多い。蕉風の雄、陸の芭蕉と談林の雄、海の西鶴。同時代、同時期におけるそのテリトリーの鬩ぎ合いを追究したい。

2012~2016年度

 
課題番号 24520252
研究種目 平成24年度 基盤研究(C)
研究課題名 地方談林俳諧文化圏の発展と消長~西鶴の諸国話的方法との関係から~
研究期間 平成24年度~28年度

1.本研究の目的

 
 日本近世期における談林俳諧は、延宝期を中心に前後十余年間、俳壇の主流を占めたにもかかわらず、田代松意一派などの江戸談林、西山宗因中心とした西鶴・岡西惟中等の大坂談林、「惣本寺」と称した高政を中心とした京都談林などは知られているが、「西は長崎、東は仙台を限りてこの道の好士耳を洗はぬと言ふことなし」(野口在色『誹諧解脱抄』)という全国に点在する地方談林俳諧の実態は不明な点が多い。本研究は大坂談林の雄、井原西鶴の浮世草子の諸国話形式に着目し、その情報源に地方談林俳諧文化圏が関係していることを検証し、談林俳諧発展の拠点であった大坂談林と地方談林俳諧文化圏との交流の実態を解明することを目的としている。

 2.本研究の学術的背景

 
 江戸時代前期、大坂経済はめざましい発展を遂げた。これは北前船特に西廻り海運・川運の開発、街道の整備などによって、ヒト・モノ・カネが活発に交流できるようになったためである。
 この頃、原料生産地の地方と加工地の都市とは、流通ルートを確立していき、その商業ルートに関わる人々の中には莫大な富を得、新興商人として名声を得る者が続出する。彼らは、次に社会的な地位を確立するために文化人を目指すこととなる。そこで旦那芸としての俳諧が好まれ、在郷有力者(武士、農民)も加わり、俳諧は文芸として多くの人々に親しまれることとなる。
 中でも談林俳諧は、江戸初期約半世紀の俳壇を支配した古風のマンネリズムの貞門俳諧にとってかわり、蕉門俳諧が確立するまでの二十数年の間に全国に広まった。
 例えば、三田浄久(1608~1688)の場合、河内の柏原を拠点に大和川の柏原船舶仲間をまとめ、河内木綿や木綿に必要な干鰯などの肥料を運搬することで家業隆盛を来し豪商となるが、ただの流通業者として終わらなかった。元来、京都の貞門派俳諧の祖松永貞徳の直弟であったが、同門の貞室・季吟・玖也らのほか、談林の宗因、西鶴、惟中ら談林派の俳士とも交遊を厚くし、やがて大和川の船舶仲間などを俳諧の道に引き入れ、河内俳壇を形成し、その中心人物として自ら『河内鑑名所記』[延宝7年(1679)]を京都の西村七郎兵衛方より出版している。

 この事実は、独自の地方俳諧文化圏を形成した主導者が、旧来の貞門俳諧から都市部で人気の高い談林俳諧の旗手たちと結びつき、新たな俳風を模索した事実を明確に示している。【1】
 森田はこれまでに西鶴作品への文学情報源としての海運・川運ルートの役割分析を行ってきた【2】【3】【4】【5】が、西鶴文学の中に当時実在した流通業者を実名であげている例が極めて多いことに気づく。これは三田浄久の場合同様、流通業者が中心となって地方に形成した俳諧文化圏と大坂談林の宗匠西鶴との密接な関係を示すものと考えられる。 西鶴と同時代に活躍した俳人松尾芭蕉『奥の細道』でも、尾花沢の俳人で紅花売買を牛耳る豪商鈴木清風、敦賀の俳人で廻船問屋の豪商天屋五郎右衛門などを訪ねて、その足跡を作品に残しているが、これも地方の有力商人が果たしてくれた俳諧普及への謝意として彼らを訪れ、より一層、または新たに蕉門俳諧の普及に努める目的ではなかったかと考えられる。芭蕉もまた、初期に江戸談林派であったことを思うと、談林俳諧圏伸張の常套方法であったのかも知れない。
 また、一方で西鶴と親交の深かった水田西吟は豊中市に残る原田神社奉納俳諧額に知るように、原田村を中心とした在郷有力者に地道に談林俳諧を広げている【6】。このような普及方法は、信濃在郷有力者を中心に談林俳諧文化を広げた野口在色にも共通している【7】といえよう。  一方で談林俳諧を標榜しながら、都市から地方に向かった俳人も多い。豊後国の西国、播磨別府の瓢水、長崎と縁の深かった一鉄など名をとどめる俳人は多いが、地方俳諧史には談林俳諧の時代の存在を認めていないところが多いのも現実であり、本研究のもう一つの大きな課題である。
 

〈参考文献・関連論文〉
【1】今田洋三著『江戸の本屋さん』,NHKブックス,1978
【2】森田報告「江戸時代における関西の海川交通と俳諧活動」,平成16年度選定「私立大学学術研究高度化推進事業」(学術フロンティア推進事業)「関西圏の人間文化についての総合的研究」第8回研究報告,2004
【3】「西鶴の情報源 ― “米商人世之介”の側面からの一考察 ―」,森田著書『西鶴浮世草子の展開』第1章,和泉書院,2006
【4】森田講演『上方文学の礎―福井・若狭― ~西鶴・近松との交渉』,福井県国際交流会館,福井県立大学・関西学院大学連携講座2006
【5】森田論文「近世海運ルートと文学の〈道〉―西鶴文学の情報ルーツ」田中きく代、阿河雄二郎編『〈道〉と境界域-森と海の社会史』第1部-第4章,昭和堂, 
【6】森田招待講演『西鶴と伊丹・北摂地域の俳諧』,伊丹柿衛文庫「ことばの魔術師―西鶴の俳諧と浮世草子」展示関連, 2011.10.15
【7】寺田良毅『郷土誹人野口在色と談林十百韻』,野口在色草崎顕彰会,2002

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